bekkou68 の日記

Gogengo! や IT 技術など。

Gogengo! の思い

(最終更新日: 2019/1/12。公開日: 2017/11/12)

思いを見い出す

思いは大切だ。思いが無ければ何となく生きることになってしまう。何となくではつまらない。思いを見つけたい。見出したい。思いとは何だろう。

思いは宙に浮かぶ雲のようだ。それでいて行動が湧き出る泉のようだ。雲のようにふわふわとしていて、泉のようにしっかりとしているものなんて、一体どうやって見つけたらいいのだろう。きっと簡単ではないだろう。

これまでをふりかえれば何か見つかるだろうか。ためしに身近なことから思い出してみよう。Gogengo! の題材は英語だから、わたしが「英語を学んでいてよかったこと」を思い出そう。

英語を学んでいてよかったこと

Gogengo! を進めるかたわら、これまで情報技術に関わるエンジニアを続けてきた。最新の情報は英語で発信されることが多い。英語が読めれば技術の動きを知ることができる。そして英語で書かれた技術の本を翻訳する機会もあった。英語と日本語は似ていて違うのだと感じた。他にも海外で数か月ほど仕事をする機会があった。外国に住んでみることでその場の雰囲気を肌で感じ取れた。これらは今の自分をつくり上げている大切な経験だ。

さて、次は何を考えよう。Gogengo! で表現する「語源を学ぶたのしさ」にしようか。

語源を学ぶたのしさ

語源とは、言葉の成り立ちである。たとえば「会社」を意味する company の語源は食べられる「パン (pan)」である。語源を調べるとこういった意外な発見が多い。意外な発見は、心や記憶に残るように思う。語源を知ると、歴史や文化を知ることになる。言葉の物語に、歴史や文化が隠れている。物語を知ると色々なことがわかってくる。初めのうちは知識という点が散らばっているだけだ。しだいに点どうしがつながって線となる。線はつながると面になる。面はつながると立体になる。物事が立体的に見えてくる。つなげる力は知恵となる。

語源の視点で英語を見直すと、色々なことが気になってくる。「なぜ英語の発音はこうなのか」。「なぜ英語のつづりはこうなのか」。「なぜ英語は多くの人に話されているのか」。「なぜ」という問いは歯ごたえがある。ためしに英語と日本語を比べると、それぞれの発想がそもそも違うようだ。言葉によって世界の見かたが違うのだ。文法、庭づくり、地名の付けかたにすら傾向を感じてしまう。そういった傾向を知ると「言葉によって思考は変わるのか」、「言葉によって性格は変わるのか」、「言葉はどこから生まれてくるのか」といった疑問が生まれる。それらの疑問を心に留めながら日々を過ごしていると、発見が尽きない。

語源とは、なぜを知ることである。なぜを知って発見すると、心が響いて記憶へと残るのだろう。

だんだんと考えが進んできた。今度は英語の過去、現在、未来を考えよう。時が経っても変わらない思いを見つけ出したいのだから。

英語の過去、現在、未来

歴史をさかのぼると英語の起源はグレートブリテン島にある。海を渡って様々な人がグレートブリテン島に訪れた。時には争いが起きた。ノルマン征服により英語は別の言語の影響を強く受けた。黒死病で英語は滅びかけて持ち直した。大母音推移で英語の発音やつづりが大きく変わった。大きな物語の中で英語は人々へ伝わっていった。

今では英語は 15 億人に話される言語となった。2018 年時点の世界人口が 76 億人だとすると、5 人に 1 人が英語を話していることになる。インターネットにも目を向けよう。W3Techs の "Usage of content languages for websites" という調査に着目する。その調査によれば、2019 年 1 月時点で大量のウェブサイトを解析した結果、 54.0% が英語となっている。インターネット上の情報のうち半分が英語とでも言うのだろうか。世界中で膨大な情報が英語で飛びかっていることは間違いなさそうだ。

数十年後はどうなっているのだろう。今ではインターネットを使えば、各国の言語でニュースを手軽に見られる。機械翻訳もできる。英会話の相手をロボットがしてくれる。これから先、国をまたぐ人の動きの度合いは高くなり、英語にふれる機会は増えていくのだろう。

数百年後はどうだろう。技術がよりいっそう進んだ社会で英語はどうなっているのだろうか。そもそも英語や日本語は存在しているのだろうか。すべての人が同じ言葉を話しているのだろうか。体に埋め込んだ機器が翻訳しているのだろうか。言葉が抽象化してテレパシーで対話しているのだろうか。そうして社会から言葉は消えていくのだろうか。

社会の過去、現在、未来

社会とは、ありとあらゆる関係性である。人々が関わり合うことで社会がある。社会には人の数だけ希望がある。食事をしたい、健康に生きたい、夢を叶えたいといった希望が人の数だけある。希望があるから仕事が生まれる。仕事とは、希望を実現することである。人はお互いの希望を実現し合ってきた。そうして築き上げられたのが今である。

はるか昔の旧石器時代までさかのぼろう。人は空腹を満たしたいなら、未開の森へ果物を自分で取りに行った。寝たいなら、草や木を自分で敷いて寝床をつくった。猛獣にいつ襲われるかわからない環境で安心できない日々を送っていた。人は「具体的な希望」を「具体的に実現」していた。「具体的な希望」とは、空腹を満たしたい、寝たいといった、生きることに欠かせない度合いの高い希望である。そして「具体的に実現」することは、自分で実現する度合いが高いということである。生きることに欠かせない希望を自分で実現していたのだ。すべてを自分で実現することは大変だから、力を貸し合っていた。集団で狩りをして、集団で家を建てていた。言葉が発達すると複雑なことができるようになっていく。罠を張って獲物を待ちかまえたり、敵に襲われた時に伝達し合い身を守ったりした。言葉は学びを育んだ。学びが育まれるほど、実現できる希望は大きくなっていく。稲作や農作をすることで、食糧を安定して得られるようにした。機織りや製鉄をすることで、複雑なものをつくれるようにした。蒸気機関や印刷技術を発達させることで、人が元々持つ身体能力を超える希望を実現できるようになった。医学を発達させることで、健康に生き続けられる度合いを高めてきた。

現在では、その日を生きることが保証されやすくなってきた。保証は安心を生む。安心できる環境では、「抽象的な希望」を「抽象的に実現」できるようになってきた。「抽象的な希望」とは、生きることに欠かせない希望の先にある希望である。「抽象的な希望」には「多様な希望」や「強力な希望」が存在できる。「多様な希望」とは、個々人の希望である。何かになりたい、認められたい、何もしたくないといった希望である。さらに言えば、「食べたい」の中にも、手早く済ませたい、栄養をバランスよくとりたい、あの土地の料理にしたいといったような希望も「多様な希望」である。そして「強力な希望」とは、実現するには人が元々持つ身体能力を超える必要がある希望である。一度に千人で目的地へ素早く移動したいであるとか、歩いて 100 日かかる遠くの土地の出来事をすぐに知りたいといった希望である。それらの「強力な希望」は、現在では新幹線やインターネットで実現されている。旧石器時代の人々から見たら、神がかりな現象に違いない。このように「抽象的な希望」には「多様」で「強力」な側面がある。次に「抽象的に実現」することとは、人以外が主体である度合いが高い実現のことである。手料理をつくることは「具体的に実現」することであり、レトルトパウチを機械で量産することは「抽象的に実現」するということである。希望を実現する機械やプログラムを組んでしまえば、希望を実現する主体はもはや人ではない。さらに抽象化を進めるのであれば、機械をつくる機械をつくればよいし、プログラムを書くプログラムを書けばよいことになる。いったい人はどこまで希望を間接的に実現するようになるのだろうか。

人の希望が尽きない限り、仕事は生まれ続ける。仕事が生まれ続ける限り、希望は実現され続ける。希望が実現されやすい環境を「便利」と呼び、希望が実現されにくい環境を「不便」と呼ぶ。希望が実現され続けることで、社会は便利になり続ける。より「抽象的な希望」は、より「抽象的に実現」され続ける。どこまでも、どこまでも。数千年後には、「星をつくりたい」、「時間を行き来したい」、「銀河の衝突を回避したい」といった「抽象的な希望」が、人以外の何かが「抽象的に実現」する世界になっているのだろうか。そうして生まれるのが、どこかの世界なのだろうか。

わからないことだらけの世界

世界とは何だろう。世界とは、システムの集合に思えてくる。システムとは、複数の要素で成り立つものである。システムには仕組み、規律、社会、生物、系、関係、時間がある。仕組みには水道、機械、ソフトウェアがある。規律には社則、家訓、法律がある。社会には仕事、組織、経済がある。生物には遺伝子、消化器官、免疫がある。系には生態系、制御系、銀河系がある。関係には法則、変化、傾向がある。時間には流れ、ばらつき、止まりがある。これらのシステムは、ひとつでは成り立たないものである。

この世界では、システムがシステムを生んでいる。大地というシステムが植物というシステムを生んでいる。希望というシステムが仕事というシステムを生んでいる。それは逆も言えることがあり、その場合はシステム同士は循環している。単方向のシステム生成があるのなら、最初に近いシステムがビッグバンを生んだのかもしれない。人は「抽象的な希望」を「抽象的に実現」する過程で、人以外のシステムに脅かされるのか、それとも助けられるのか。どこかに安心を探し続けるのだろうか。地球が太陽に飲み込まれるのであるならば、人はどこの星へ行くのか。天の川銀河アンドロメダ銀河と衝突するのであれば、人はどこの銀河へ行くのか。いつか宇宙の外へ飛び出すのだろうか。その時の人の姿はどうなっているのだろうか。人は人自身ですら抽象化し、人という呼び名ではない、何かで呼び合っているのだろうか。知性の定めは抽象化なのだろうか。

抽象的に生きることは進化なのか、具体的に生きることは退化なのか。変化することは進化なのか、変化しないことは退化なのか。よい変化が進化なのか、わるい変化が退化なのか。「よい」とは何か、「わるい」とは何か。「よい」や「わるい」を決めたがるのは、どこかに「ただしさ」や「間違い」があると信じたいだけなのだろうか。「ただしさ」や「間違い」があると信じてつくり上げているシステムが、法律や道徳や倫理なのだろうか。そういった「ただしさ」や「間違い」を見い出さずに人は生きていけるのだろうか。人の尺度を超えた「ただしさ」や「間違い」はあるのだろうか。そこに意味はあるのだろうか。意味は人がつくり出した言葉であるのに。

この世界でたのしく生きる

思いを見出そうとしていたら、いつの間にか色々なことを考えていた。あらためて Gogengo! に立ち返ろう。Gogengo! では「英語の語源のたのしさ」を表現したい。たのしさとは何だろう。たのしさとは、心地よい感覚だ。特に学んでいる時がたのしいのだ。それでは学びとは何なのだろうか。学びとは、知って、感じたり考えたりして、気づいて変えていくことだ。知ること、感じること、考えること、気づくこと、変わること、どれかひとつでも欠けていたら学びではない。何かを知って、心で感じて、頭で考えて、何かに気づいて、ふるまいを変える。その繰り返しが学びなのである。他者から聞いた話をただ単に知っているだけでは、受け売りに留まってしまう。知ったうえで自分なりに感じて、考えて、気づいて、変わってこそ、自分らしくなっていくのだ。

語源とは、「なぜ」である。「なぜ」とは、奥にあるものである。奥にあるものとは、そのシステムを生んだシステムである。語源を学んでいると、いつの間にか「そもそも」を考え出している。物質とは何か。質量とは何か。速度とは何か。空間とは何か。時間とは何か。命とは何か。心とは何か。存在とは何か。粒とは何か。波とは何か。要素とは何か。言葉とは何か。意味とは何か。本当とは何か。時間を忘れて打ち込めるたのしさが、そこにある。

刻々と変わっていくこの社会で、わからないことだらけのこの世界で、何を思い、何をしていくのか。自分自身を見失ってしまわないように。少しでも何かをわかった気になれるように。生きているとあらゆることを学びたくなってくる。言語、数学、心理、化学、物理、人文、環境、生物、スポーツ、音楽、植物、宇宙。特にわたしは言葉が好きのようだ。言葉の学びは、あらゆる学びをなだらかにしてくれる。言葉の響きを感じ取ることが心地よい。言葉の響きを考えることが面白い。だから今日も一つひとつの言葉を調べて、自分にどう響くかを書き残すのだろう。書き残した言葉と向かい合うことは、まるで自分自身と対話しているような感覚だ。自分の言葉は互いに響き合って、自分の物語となっていく。自分の物語をつむぎながら生きることは、たのしくて心が満たされる。だからこの思いをかかげよう。


生きることは学ぶこと。

せっかく学ぶなら、たのしく。

たのしく学ぶことは、生きる力となるから。

たのしく生きることにつながるから。