bekkou68 の日記

Gogengo! や IT 技術など。

墨田区のイベントにて Gogengo! の話をしてきました

『日本語と英語をつなぐ』のすずきひろしさんからお誘いいただき、墨田区で開催されたイベントで Gogengo! の話をしてきました。前半はセミナーで、後半は音楽会という、密度が濃くたのしい時間でした。

当日のスライドの一部を載せてみます。

ありがたいことに、Gogengo! の話をしてお金をいただける機会が増えてきました。これからもたのしみながら、自分自身をよりいっそう引き上げていきたいなと思います。

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Gogengo! Meetup #10 をひらきました

やったこと

  • 『Gogengo! の思いの背景』の背景のお話。
  • 『どんどん話すための瞬間英作文トレーニング』
    • 一周目: セクションを一つ進める。日本語を読み上げ、英語を見ないで答える。
    • 二週目: いくつかのセクションからランダムに日本語を読み上げてもらって、英語を答える。
  • 墨田区のイベントに向けてデモンストレーション。
  • そろそろ Gogengo! Meetup に人を呼んでもいいのかも。
  • Jokes in English for the ESL/EFL Classroomジョークをいくつか読んでみる。
  • Do you like traveling alone? - Elllo を聞いて読んで発音する。One Minute English はちょうどいいな。
  • NEXT ユニコーン 108 社に Blabo! 社が。
  • Kotlin。Google が公式にサポート。すべてのプラットフォームで一つの言語を。JetBrains 社。Android Studio。InteliJ。

参加者

2 名 (@uu_ka、@bekkou68)

開催日

2017/11/25 (土)

開催場所

Blabo! 社のオフィスにて。

開催の趣旨やスタンス

第一回の記事を参照のこと。

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Gogengo! の思い

はじめに

Gogengo! では次の思いをかかげている。

生きることは学ぶこと。

せっかく学ぶなら、たのしく。

たのしく学ぶことは生きる活力となるから。

たのしく生きることにつながるから。

ここでは、この思いをどのように見い出したかを書く。

なお、この思いの表現として『Gogengo! の全体像』がある。

思いを見い出す

思いというものは、ふわふわしていて、よくわからないものだ。それでいて、ふだんの考えや行動が生まれてくる源だ。とらえどころがないが、奥底にあり、格をつくり上げる、大切な何かだ。そんなものをどうやって見い出したらいいのだろう。都合よく出てくるものではないだろうし、仮にふと出てきたとしても、不安になりそうだ。風が少し吹くと飛び去ってしまいそうで。より所にするには、あまりに心もとない。思いはきっと、考え抜いたらしっかりしたものになるのだろう。

ためしに、身近なことから考えてみよう。Gogengo! では英語を取り扱っているから、「英語を学んでいてよかったと思うこと」なんて考えてみよう。

英語を学んでいてよかったと思うこと

「英語を学んでいてよかった」と思う時はいつだろう。社会人として過ごしていると、実感がわきやすいのは、仕事で役に立ったかどうかだと思う。

自分はどんな時にそう思ってきただろう。十年ばかり、情報技術に関わるエンジニアをやってきた。最新の技術ほど英語で発信されている。英語がわかると正確な情報を早く得られる。そして、仕事の幅が広がる。たとえば、『アジャイルサムライ』という技術書を翻訳する機会をいただいたり、サンフランシスコで仕事をする機会をいただいたりしてきた。これらの経験は、ありがたく、今の自分をつくり上げる、大切なものだ。

ひとつ、会計士の友人から聞いた話を思い出した。会計の基準には、国内会計と国際会計がある。内容を比べるとだいぶ違うものらしい。たとえば、M & A の時に検討されやすいのは、償却の観点で優位な国際会計だ。いざ M & A をしたい現場に直面して、国際会計を適用したくても、原本は英語で書かれている。英語がわかる会計士なら、そういう場でも活躍できるのだろう。

英語を学んでいれば、「やっててよかった」と思える時がきっと来るのだと思う。さて。次は何を考えてみよう。Gogengo! のコンセプトにもなっている「語源を学ぶたのしさ」について考えてみようか。

語源を学ぶたのしさ

語源は、言葉の起源だ。起源を知ることは「なぜ」を知ることである。「なぜ」を知ることは、理由や背景を知ることだ。言葉の「なぜ」を学ぶと、どんなよいことがあるのだろうか。

一つは、語彙の定着がはかどることだと思う。語彙を定着させるには、記憶が必要だ。記憶の仕組みを解明するためにさまざまな研究が行われている。一説に、海馬仮説というものがある。海馬仮説とは、「人が何かを覚えようとする時に、情報はまず、海馬と呼ばれる脳の一部に入る。海馬にある情報が重要でないと判断されると忘れてしまう。かたや、重要だと判断されると、側頭葉へうつって長期的に記憶される」というものだ。この仮説の真偽はわからないが、今までをふりかえると、本当にそうなんじゃないかと思えることは多い。たとえば、好きでやり続けることは定着する。好きだという感情や、何度も繰り返す刺激が、重要だと判断する材料なのかもしれない。その材料になるのが「なぜ」を知ることだと思う。語源を知ると、英単語の「なぜ」を知れる。「なぜ」を知ると、時に信じられない発見をすることがある。company に含まれる語源である pan が、食べられるパンだと知った時の驚きは忘れられない。発見は、心を響かせ、残してくれるのだろう。

言葉の「なぜ」を学ぶよさをもう一つ上げるとするなら、物事の背景を考えるきっかけを与えてくれることだ。小さな子どもに「なんで?」と聞かれると、「そういえばどうしてなんだろう」と考えるきっかけになるように。語源を調べると歴史を知れる。歴史を知ると、「なぜ英語の発音は複雑なのか」とか、「なぜ英語はたくさんの人に使われるようになったのか」といった疑問に明かりをともしてくれる。英語をつくった人々の意図や、英語をつかう人々の意図が見えてくる。英語と日本語の発想の違いも見えてくる。言葉の発想の違いは、名前の付けかた、美術、庭づくりまで影響を及ぼすのだと感じ取れる。色々とわかってくると、色々な仮説を立てられる。考えが進んでいく。

だから、語源を学ぶことはたのしいのだと思う。だんだん考えがはかどってきた。今度は、英語の現在と未来を考えてみよう。思いは、時が経っても廃れないものだから。

英語の現在と未来

英語がイングランドで生まれたばかりの頃は、英語の話者は十五万人だったとされる。時が経つにつれ、ノルマン征服や黒死病にさらされながら、英語は激しい変化をしてきた。今では世界の四人に一人が英語を話しているらしい。なんて大きな数字だ。インターネットにも目を向けてみよう。W3Tech が行っている "Usage of content languages for websites" という調査はおもしろい。この調査は、上位 1000 万件のウェブサイトが何の言語で書かれているかを分析したものだ。2017 年 11 月の時点では、英語が 51.2% となっている。なんと。インターネットにある情報の半分が英語だ。現在は、英語がわかれば、得られる情報が多くなることは間違いなさそうだ。

それでは今後はどうだろう。日本の十年後を考えてみよう。2020 年にオリンピックが東京でひらかれる影響で、英語を学ぶ人が増えているようだ。ボランティア、タクシーの運転手、さまざまな人が英語を学んでいる。機械翻訳は自然になってきている。英会話の相手をロボットがしてくれるようになってきている。英語にふれてみようと思える機会は増えていくのだろう。日本における英語学習は、ますます盛り上がっていくのだと思う。

さらに時間を進めて数十年後、数百年後はどうだろう。技術の革新によって、人の希望はさらに加速して実現されていくだろう。体に埋め込んだデバイスが翻訳するようになるのだろうか。テレパシーのように対話できるようになるのだろうか。もはや、言葉ではない別の何かで意思を疎通するようになるのだろうか。人の希望が尽きない限り、仕事は生まれ、実現されていく。その過程で、「心がかよう対話とは何か」、「なぜ言葉を学ぶのか」、「言葉は必要なのか」といった問いに、人は葛藤するのだろう。さらに時が過ぎるにつれ、そんな問いすら忘れていくのだろうか。

便利になり続ける社会

社会はどう変わっていくのだろう。そもそも社会とは、あらゆる関係のことだ。社会には、さまざまな人がいて、さまざまな関係がある。そんな環境で、人は希望を持っている。「おいしいものを食べたい」、「健康に生きたい」、「夢を叶えたい」といった希望を持っている。希望があるから仕事が生まれる。仕事とは、希望を実現することだ。人は仕事をしてきた。お互いの希望を実現し合って生きてきた。そうやって人は今を築き上げてきた。そしてこれからも。人の希望が尽きない限り、社会は便利になり続ける。便利さは増し続ける。便利さとは、実現される希望の度合いである。希望の実現される度合いが高い状態を「便利」と言い、希望の実現される度合いが低い状態を「不便」と言う。今の社会で、いったいどれだけの人が、自分で食べる野菜を育て、自分で住む家を建て、自分で着る服を仕立てているのだろう。無人島で自活でもしなければ、ほとんどの希望が他者によって実現される便利な環境で人は生きている。

はるか昔、原始時代までさかのぼれば、人は「具体的」な希望を「具体的」に実現するのに精一杯だった。「具体的」な希望とは、「空腹を満たしたい」とか、「寝たい」といった、生きることに欠かせない度合いの高い希望である。そして、「具体的」な実現とは、自分で実現する度合いが高いということだ。「空腹を満たしたい」なら、自分で未開の森林へ果物を取りに行ったり、「寝たい」なら、自分で草や木を敷いて寝床を用意していた。自分の希望をすべて自分で実現することは大変だから、協力していた。集団で狩りをしたり、住む家を集団でつくったり。実現するには工夫していた。狩りで罠を張ったり、家の骨組みを壊れにくくしたり。工夫を重ね、学びを重ね、実現できることが増えていった。稲作を始めたり、機織りを始めたり。鉄を加工したり、蒸気機関で移動したりできるようになっていった。

そうして今では、人の希望は「抽象的」になってきた。「抽象的」な希望は、多様であり、強力である。多様な希望とは、「早く空腹を満たしたい」とか、「あの国の料理で空腹を満たしたい」といった、ただ単に「空腹を満たしたい」だけではなく付加的なものが乗った希望である。強力な希望とは、「一度に千人で目的地へ素早く移動したい」とか、「たどり着くのに歩いて百日かかるような遠くの土地の出来事をすぐに知りたい」といった、個人の力を超えた、神がかりのような希望である。「抽象的」な希望を実現するためには、「具体的」な希望が安定して実現され続ける状況が必要だ。なぜなら、今日生きることに必死だったら、「抽象的」なことをやる余裕などないからだ。

人の希望は「抽象的」になり、さらに、それらの希望は「抽象的」に実現されるようになってきた。「抽象的」な実現とは、他者が実現する度合いが高いことだ。機械化やプログラミングによって、人の希望を実現する主体は人でなくなっていく。自分の希望が「具体的」に実現されると、実現してくれる相手は見えやすい。帰り道に一緒に駅まで送ってもらったら、送ってくれた人にお礼を言える。タクシーで送ってもらったら、運転手にお礼を言える。けれど、自分の希望が「抽象的」に実現されると、実現してくれる相手が見えづらくなる。電車で送ってもらっても、運転手がいる場所は遠い。水、電気、ガスはあたりまえに供給されているが、誰が実現してくれているのだろう。そもそもどういう仕組みなのだろう。さらなる技術の革新は、より「抽象的」な希望を、より「抽象的」に実現していく。メタマテリアル、ゲノム編集、人工知能は、何をもたらすのだろう。

より「抽象的」に生きるようになることは、進化なのか、退化なのか。変化し続けることが進化なのか。変化をやめることが退化なのか。「よい」変化が進化で、「わるい」変化が退化なのか。「よい」とは何か。「わるい」とは何か。「よい」とか「わるい」を決めたがるのは、「ただしさ」や「まちがい」があると信じたいだけなのかもしれない。

わからないことだらけの世界でたのしく生きるということ

いつの間にか色々なことを考えていた。その過程で、少しずつ何かが見えてきた。あらためて Gogengo! へ立ち返ろう。Gogengo! でかかげるコンセプトは、「英単語は語源でたのしく」だ。「英単語」や「語源」については考えてきた。だが、「たのしさ」そのものについては、まだそれほど考えていない。たのしさとは何だろう。たのしさは感情だ。感情は心のふるえだ。感情を言葉で語るのは、頭でっかちで、なんだか無粋な気はする。でも、何か見える気もする。だから、あえて言葉にしてみよう。

たのしいと感じることは何だろう。歌をうたったり、山を登ったり、大勢ではしゃいだり、少人数で話し込んだり。何をたのしいと感じるかは、人によって違う。たのしいと感じる時はいつだろう。朝にやったり、夜にやったり、子どもの頃にやったり、大人の頃にやったり。たのしいと感じる時は、時間によっても違うのだろう。今だけたのしいのか、時々たのしいのか、あとでたのしくなるのか、ずっとたのしいのか、といった違いもありそうだ。

それでは自分にとって、たのしさとは何だろう。それは、「知ったり考えたり動いたりして、頭がくすぐったくなる心地よい感覚があって、またそうしたいと思う気持ち」だ。だとすると、自分は、学んでいる時がたのしいのだと思う。学びとは、「知って、考えて、気づいて、変わること」だから。たのしさと学びはほとんど一緒というわけだ。だから、たのしく学ぶことは、たのしく生きることにつながるのだろう。

語源を知ることは「なぜ」を知ることだ。「なぜ」を問うことは、奥にある何かを知ることだ。言葉に「なぜ」と問うと、言葉が表す意味がそもそも何なのかを考えるきっかけになる。「仕事」とは何か。「社会」とは何か。「学び」とは何か、「考える」とは何か。「人」とは何か、「存在」とは何か。考え始めると、時間を忘れて没頭できるたのしさが、そこにある。

この世界は、いつ終わるかわからない、何が本当かさえ知ることができない、わからないことだらけの何かだ。「なぜ生きているのか」すらわからないのだから、少しでも気がゆるむと、自分なんてすぐに見失ってしまう。それでも、何かを知りたい。何かをわかった気になりたい。だから今日も、人と話したり、本を読んだりするのだろう。自分はここにあるのだと思いたい。だから今日も、一つひとつの言葉が自分にどう響くかを書き残すのだろう。言葉はしだいに響き合い、自分だけの辞書や物語となっていく。それはたのしくて心が満たされることだ。

だから、この思いをかかげよう。


生きることは学ぶこと。

せっかく学ぶなら、たのしく。

たのしく学ぶことは生きる活力となるから。

たのしく生きることにつながるから。
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